
こんにちは。ライト・コピーライター 神秘早紀です。
プライドについて、
私は一度も考えたことが
ありませんでした。
キーラ・ナイトレイ 出演
映画『プライドと偏見』
くらいしか、
イメージがありませんでした。
(いい映画ですよね〜)
話は戻しますが、
聖書を読んでいて
『プライド(高慢)』等は
神が嫌われるものであり、
邪悪なものだと
教えていただきました。
すごくハッとさせられたので、
シェアをさせてください。
【告白】人、周りの目を気にしてしまう。それ自体が愚か。
少し、私の体験と共に
悔い改めをさせてください。
私は昔から、
人の目が気になるタイプでした。
「あの人、なんで見てくるの?」
「知らない人が見てる」
「どうして?どうして?」
街を一人で歩いている時は
常に視線に怯えていました。
ですが、それと同時に
「私は人とは違うからね」
「オシャレだからかしら?」
「オーラがあるからね〜」
などと、自分を高く評価して
得意げな思いすらありました。
傲慢ですね。
これらはどちらにしても、
愚かでしかありません。
しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。 ”神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。”
新約聖書 ヤコブ 4:6
人々の前で、自分は一体
どう見られているのかは
第一に考えることではない。
二人に使えることは
できないから。
だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
新約聖書 マタイ6:24
【対処法】人の目が気になるのならば、聖書を読もう。
「人の目を気にしなければいい」
これが、結局は対処法ですが
そんなことを言われても
どうすることもできません。
そもそも、なぜ気にしているのか。
それは、あなたが
プライドを持っているから。
だから、気にするんです。
人の目を。評価を。
どう見られているのか、
そこに重きを置いているから。
自分を中心に考えているから
プライドが生まれるのです。
こういうことを言うと、
「なんだか弱々しい」
「謙虚であれってこと?」
「なんか、負けたようで嫌だ」
・・・このような感情を
私は最初の頃は抱いてました。
反発しているんです。
「見てくる人が不愉快だ」
「私に不快な思いをさせるな」
「私はあなたとは違うんだ」
とかね。
そのくらい心が荒れていた時も
結構ありました・・・。
原因はぜんぶ、プライドです。
人はどうだっていいのです。
その人が悪かろうが、何だろうが
自分がコントロールできる
ものではないし、
する必要もない。
咎める権利なんてない。
ただただ、自分のプライドが
そうさせているんです。
それに気づくことが
対処法です。
しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」
新約聖書 ヤコブ 4:6
【神に愛される】プライドとどう付き合えばいいの?
プライドは、
所狭しにあります。
私は、仕事でよく出くわします。
責任を問われた時に、
私はよく言い訳をしました。
でも、言い訳に見えないように
それらしいことを並べて
「私はきちんとしています」
みたいなアピールをしていました。
ある程度、自分を守る意味では
自己主張も必要かもしれません。
なんでもイエスマンには
いきませんから・・・。
ですが、こういう言い訳一つ、
実はプライドです。
責任転嫁になっているのであれば
間違いなく、プライドです。
問題が次から次へと
飛躍していけばいくほど
混乱を招き、
闇のループに入っていくことも。
どう向き合うかは、
プライドの正反対のことを
するのみでしょう。
同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。
新約聖書 ペテロ 5:5
へりくだる者とは、
謙遜している人。
自分の評価が第一ではなく、
大きく見せない人。
だって、人からの評価は
どうだっていいもの。
こういう人は、
神からの評価というか、
神の言葉を信じているから
神に愛される為にしているから。
【神には感情がある】愛されるか、憎まれるか
貞操のない人たち。世を愛することは神に適することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。
新約聖書 ヤコブ 4:4
二人の主人に従うことは誰にもできません。
新約聖書 ルカ 16:13
ゆえに、
あなたはどちらの道に
行きたいですか?
私は、神に愛されたい。
すでに愛されているけれど、
それを受け取りたい。
つまり、その資格を
受け取りたいのです。
神に憎まれるのではなく
神の愛の元に行きたい。
ただただ、
そう感じました。
この壮大で寛大な思いを
神、主イエス・キリストへと
感じた時、
プライドなど
取るに足りないものだと
気づいたのでした。
・・・そう思うのは簡単で、
行動するかどうかが重要。
これは私への戒めです。
参考になれば幸いです。
ありがとうございました。
アーメン。
神秘早紀